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シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分-3[困った体質]

こちらの続き↓


前回の記事


 何故いつかやりたいことリストなるものがあって、すぐに動き出さないか、という話。


原因は自分の「体質」。


というかこれははっきり言って「病気」とすら言える。名付けて「必要性や緊急性に関わらず各瞬間自分がやりたいと思ったこと以外一切手がつかない病」である。長い。おちゃらけた書き方をしているが、結構悩ましい病気である。


 今回のことで言うと、「しぼめる花」を初めて聞いた時は別のことに集中していたのである。(大学の卒業試験の直前でもあり、学外での演奏会もいくつか準備に取り掛かっていた。)


 この病はこのブログの更新率の低さの原因そのものでもあり、特効薬でも出ない限り死ぬまで付き合い続けることになるので、最近は(周りの人へは気を遣いながら)上手く付き合えるように努めている。その一環でできたのが、「いつかやりたいことリスト」。ちなみに、基本的には携帯のメモ機能に残してある(あくまでも基本的に)。


 そして、僕はこの体質と上手く付き合っているおかげで、僕の脳内の「いつかやりたいことリスト」はそれなりに整理されたまま、尚且つそれなりの量のタスクが溜め込まれている。「しぼめる花」はこのリストの中で、割と長いこと熟成されていたのである。





次回、「音楽を学ぶにあたって大事にしてること」。たくさんあるうちの一つ。今回のきっかけの一つ。


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