スキップしてメイン コンテンツに移動

シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分-2[作品の印象]

前回からシリーズ化というものを始めて見ている。まだそちらの記事をご覧でない方のためにリンクを貼りたいのだが、やり方がまだイマイチ理解できていない。



前回の記事




↑こちらの続き。こちらで書いている「何を思い立ってこんなに急にシューベルトをやろうと思ったか」という話の軸のうちのひとつをここに書こうと思う。

まず曲の第一印象。学生の頃に同期の演奏で初めて聴いたのだが、印象だけでいうと、「長い」。

ただ聴いた演奏がとてもよかったのもあって、割と早い段階で意味のある長さを持つ曲だと気付くことができた。


 しかし、変奏曲という形式上、全ての変奏は最初のテーマを基準に変奏されているので(当たり前)、曲自体の「長さ」はそれなりにネックになってくる。ましてやシューベルトの変奏技法は(一言で表すのは本来好まないが)「さりげない」ので、彼の仕掛けたことは、奏者がかなり敏感に拾う必要があると感じた。それをまたこの長さでやるのとなると、やはり演奏家に委ねられている部分が大きい作品だと思う。


 そして、自分に湧いてくる疑問は「こう言う難しさを持った曲を果たして自分はできるだろうか」と言うものである。言ってしまえば、サクソフォーンレパートリーにはないタイプの深みを持った作品だと感じたのである。(一応言ってはおくがサクソフォーン作品にも別ベクトルでそれなりの深さがあるのが大前提での話である。)


 こうして、この作品は自分の中で「フルートの人がよくやる曲」から「今の自分がまだ向き合えていない領域の曲」という、課題的な立ち位置になり、なんとなく「いつかやりたいことリスト」に追加されるのである。その「いつかやりたいことリスト」なるものが何故あって、なぜそんなものがあるのにすぐに動き出さないか、というのの説明となるのが自分の「体質」の話。次回予告。



コメント

このブログの人気の投稿

下げられるハードルは下げとけばいい

  放置するだけして、いざ重い腰を上げて記事を書こうとすると、それまでの自分の記事が「ハードル」という形で立ちはだかってくる(特にシューベルトのやつ)。そりゃあ生産性やらなんやら、あるに越したことはないのだが、それを理由に何もやらなくなるくらいなら、こういう何が言いたいのかすらわからないような記事も、書いときゃいいんじゃん?という話。ある程度増えたら消しゃいいんだし。  とりあえずわざわざここへきて何が言いたいって、自分の「仕事観」みたいなのが、割と大きく変わった一ヶ月感を過ごしましたよ〜、ということ。完全に自分のための、備忘録。 これがこのまま、うまくいったとしたら、この記事を見返した時、面白いのかな。まぁどうでもいいや。

シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分-6[もしかして情緒が不安定]

 前回の続き↓ 前回の記事 ここで自分がなぜこの曲をやろうと思ったのかと言う話がやっと終わる。やはり長い。 まとめてしまうと、これまで書いてきた気分の浮き沈みが、最後のたった一つのきっかけにより、異常なまでの行動力に変換されるのである。 「巡り合わせ」 改めて考えると、こんなことでケロッと元気になってしまうことが、自分という人間のよくわからない部分でもある。  「1840年以前に作曲された曲」を課題とするコンクールの登場である。このコンクールの要項をみた瞬間、それまで過去の受験の失敗と今後の目標を失ってしまっていた自分は、目先の目的を見つけられた嬉しさだけを原動力に、作りかけだった譜面をすぐに完成させ、ピアニストにも連絡する。  そこから録画の提出までの流れが、ついひと月前の話なのだが、すでにその過去の自分を気味悪く感じている自分がいる。  審査動画の録画環境、機材、合わせ練習の場所、そもそもの自分の練習場所、これら全てがろくにない状態だったのに、よくやったものだ。こういう時特に褒めてくれる人は周囲にいないので自分で自分を褒めることとする。 さぁここでやっと演奏するきっかけについては書き終えたわけだが、冷静に考えて、今のところこのシリーズのタイトルに書いてある内容まではろくに触れられていない。次回、「シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分」今更すぎる。

シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分-7[と言うよりかコンクールを久々に受けて見えてきた自分]

やはりシリーズ化して、7まで進めてこう振り返ってみると、一個一個は短過ぎても、7倍の長さの記事は誰も読まないだろうから、このやり方でよかったのかもしれない。 前回の記事 ↑こちらの続き。 今回でまとめあげる。つもり。 「見えてきたこと」などと言ってるが、はっきり言って一番見えたのは「見えてないこと」だったりする。 何も分かっていない、と言うことがわかった。 別に悪いことじゃぁないがここにかくまでの事でもない。 「見えたこと」に的を絞った時、ネガティヴなこと(想像以上に自分普通に楽器が下手だとか録音の雰囲気苦手だとか)に関してはそれこそいくらでも言えるが、それこそそんなのは僕にとってなんら新しい情報ではない。今回ここに残しておきたいのはいままで見えてなかった自分の側面。 まずシューベルトに関すること。 ベクトル的には想像通り、しかし程度で言うと想像以上に、たった一つの音の置き方が大きく音楽に影響する作品に思えた。それら一つ一つをいちいち吟味しながら、演奏回数を重ねて見たくなる。そしておそらく都度「あそこうまくいかなかった」だとか「あそこは根本的に違うのではないか」とか反省をするのだろう。サクソフォーンレパートリーでこれを感じられるのは、グラズノフとか、その辺りだろうか。それか、本来はどんな作品でもそう言う思考回路をもっとくべきなのだろうか。 まぁとどのつまり、作品に関しては今回だけで見えたことはさほど多くないだろう、と言った感じ。新しい課題を見つけられたのは多かれ少なかれ収穫。 そして自分自身のこと。 はっきり言って一番大きいのは、自分が案外「目先のことのためにしか動かない」、と言うこと。 記事の進め方的に、読んでる皆様は僕が誰であるか以前に、この一面が見えているのだろうが、この事実は「金澤ニコラス」とかいう人間を23年やっている僕にとっては、案外新しいことだったりする。  と言うのも、学生時代は目先に与えられた(押し付けられたともいう)タスクが毎回あまりに多く、「その先」をみるのがそもそも難しかったのである。そこで当時の僕は、目先にあるそれらを、意識的に「その先の自分の成長のため」と言うモチベーションを張り付けてこなしていたのである。  振り返ってみると、それ自体は全く悪いことではないと思うし、むしろあの頃の自分は自分で本当に沢山の柵があった中、よく前向きに頑張って