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シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分-7[と言うよりかコンクールを久々に受けて見えてきた自分]

やはりシリーズ化して、7まで進めてこう振り返ってみると、一個一個は短過ぎても、7倍の長さの記事は誰も読まないだろうから、このやり方でよかったのかもしれない。

前回の記事

↑こちらの続き。



今回でまとめあげる。つもり。

「見えてきたこと」などと言ってるが、はっきり言って一番見えたのは「見えてないこと」だったりする。

何も分かっていない、と言うことがわかった。

別に悪いことじゃぁないがここにかくまでの事でもない。


「見えたこと」に的を絞った時、ネガティヴなこと(想像以上に自分普通に楽器が下手だとか録音の雰囲気苦手だとか)に関してはそれこそいくらでも言えるが、それこそそんなのは僕にとってなんら新しい情報ではない。今回ここに残しておきたいのはいままで見えてなかった自分の側面。


まずシューベルトに関すること。

ベクトル的には想像通り、しかし程度で言うと想像以上に、たった一つの音の置き方が大きく音楽に影響する作品に思えた。それら一つ一つをいちいち吟味しながら、演奏回数を重ねて見たくなる。そしておそらく都度「あそこうまくいかなかった」だとか「あそこは根本的に違うのではないか」とか反省をするのだろう。サクソフォーンレパートリーでこれを感じられるのは、グラズノフとか、その辺りだろうか。それか、本来はどんな作品でもそう言う思考回路をもっとくべきなのだろうか。

まぁとどのつまり、作品に関しては今回だけで見えたことはさほど多くないだろう、と言った感じ。新しい課題を見つけられたのは多かれ少なかれ収穫。



そして自分自身のこと。

はっきり言って一番大きいのは、自分が案外「目先のことのためにしか動かない」、と言うこと。

記事の進め方的に、読んでる皆様は僕が誰であるか以前に、この一面が見えているのだろうが、この事実は「金澤ニコラス」とかいう人間を23年やっている僕にとっては、案外新しいことだったりする。

 と言うのも、学生時代は目先に与えられた(押し付けられたともいう)タスクが毎回あまりに多く、「その先」をみるのがそもそも難しかったのである。そこで当時の僕は、目先にあるそれらを、意識的に「その先の自分の成長のため」と言うモチベーションを張り付けてこなしていたのである。

 振り返ってみると、それ自体は全く悪いことではないと思うし、むしろあの頃の自分は自分で本当に沢山の柵があった中、よく前向きに頑張っていたと思う。しかし本当に皮肉なのが、そんな学生時代の自分は、心からコンクールというものをひどく嫌っていたのである。

 今の自分からみると、適当に御託を並べて避けていた感じに近いのかもしれない。しかしそうやって逃げていたことに後悔してるかと言ったら、案外そうでもない気もする(どんどんまとまらなくなっていくなこのシリーズ)。学生の頃の自分は自分で、コンクールにかえられない経験を山ほどさせてもらったし、その中に無理矢理コンクールをねじ込んでもうまくいかなかったとすら思う(実際うまくいってなかった)。


  そして是非とも過去の自分に言いたい。今やってるそれらをやめて、コンクールに「勝とうとする」努力など、是非とも始めないでほしい。このことが大事ではないとは言わないが、今必死にこなしてる一見無価値にも見えること達の方が、まさに未来の自分の主成分になっている。


何が言いたいって、某ウィルスやら院試の失敗やらなんやらでほぼ空洞状態になっている今の自分は、突然目の前に面白そうなコンクールが現れて、受けて、なんと一位をとったのである。(※結果はなんとこのブログのドラフト作成の真っ最中に告示され、「結果など気にするな」スタンスでまとめようとしていただけに、自分自身もかなり驚いてる。)

そして奇妙なことに、そんな自分に今残っている感情なんて「なんか楽しく取り組んでたら評価までされちゃった嬉しい」ぐらいのものである。


このコンクールを通して、自分が人に「勝つための」演奏のメソッドを見つけたとか、シューベルトのエキスパートになったとか、微塵も思わない。むしろそれらが全然できていないのに今回は運よくいい結果が残っただけすらある。それでもこれらのことを「分かっていない」と言う事実は、このコンクールなしに気づくことができなかったのである。

 

兎にも角にも、目の前に具体的なタスクを用意してくれる人がいない今、コンクールと言うのはいい勉強のモチベーションになりうると言うことを発見した。これからもうまくモチベーションに向上に活用していこう、と言う話。


結局スッキリはまとまらなかったこのシリーズを最後までよんでくださった方、きっとどこかに一人くらいはると信じてる僕のことを応援しいてくださっている方への感謝の気持ちを背負いつつ、これからの勉強なり活動なりに励んでいきたい。



 

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