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シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分-4[そもそもの音楽を学ぶにあたっての話]

 こちらの続き↓


前回の記事


前回の欠点の裏返しみたいな話とは違い、今回はそもそもの姿勢の話。


「なるべく沢山の作曲家と関わる」

と言う目標。


 こんなにも当たり前のことが、我々サクソフォーン奏者にとっては本当に難しい。どれほど難しいかというと、この目標を掲げていながら、そしてなんなら音高を経て音大を卒業したのに、まだシューベルトの作品に一切触れたことがない、などという現象が起きるほどである。


 触れるまででもないことだと思うが、サクソフォーンのレパートリーは極端に20世紀フランスに集中しており、我々は恐ろしいことにそれらを平気で「古典」と呼んでしまうのである。そして自分含め、大抵の場合は、仏レパートリーや現代モノを、他と比べて考える機会も与えられないまま、それらを「得意分野」とすることを余儀なくされる。


 高校の頃からなんとなくこのことに危機感を抱いてはいたが、大学に入ってからはfl.ob.cl.saxひとりずついるクラスでの授業が中心になり、その同期たちや、フルートやファゴットの先生方から、この危機感をより現実的に感じさせられるのである。大抵どの同期も、それなりの根拠を元に好き嫌い、得意苦手を意見し合う中、やはり自分はほぼ言わされているような感覚で「仏ものが好き」と言っていた。というか、仏ものや現代ものが好きでもないなら、なぜサックスなど吹いているのかとすら思ってしまっていた。冷静に考えて極端すぎる。ある段階でこの柵とは上手く付き合えるようになり、「とりあえずなるべく色々触れてみて、何が好きかを知ろう」と考えるようになった。


 こうして自分の脳内の「いつかやりたいことリスト」の中身はどんどん増え、例の病気によってリスト内で熟成されていくのである。





話は逸れるが、このシリーズ化の試み、「切り分け方」が非常に難しい。一つにまとめるには流石に長いのだが、改めて切っていくと、一つ一つはかなり短い...たまにあまりに短いのも出てくる。


そして次回する予定の投稿はまぁまぁ根深いもので、この記事とくっつけるのは違うと感じたのである。



次回「帰ってきたモチベーションと即座にくる挫折」

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