スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

下げられるハードルは下げとけばいい

  放置するだけして、いざ重い腰を上げて記事を書こうとすると、それまでの自分の記事が「ハードル」という形で立ちはだかってくる(特にシューベルトのやつ)。そりゃあ生産性やらなんやら、あるに越したことはないのだが、それを理由に何もやらなくなるくらいなら、こういう何が言いたいのかすらわからないような記事も、書いときゃいいんじゃん?という話。ある程度増えたら消しゃいいんだし。  とりあえずわざわざここへきて何が言いたいって、自分の「仕事観」みたいなのが、割と大きく変わった一ヶ月感を過ごしましたよ〜、ということ。完全に自分のための、備忘録。 これがこのまま、うまくいったとしたら、この記事を見返した時、面白いのかな。まぁどうでもいいや。
最近の投稿

シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分-7[と言うよりかコンクールを久々に受けて見えてきた自分]

やはりシリーズ化して、7まで進めてこう振り返ってみると、一個一個は短過ぎても、7倍の長さの記事は誰も読まないだろうから、このやり方でよかったのかもしれない。 前回の記事 ↑こちらの続き。 今回でまとめあげる。つもり。 「見えてきたこと」などと言ってるが、はっきり言って一番見えたのは「見えてないこと」だったりする。 何も分かっていない、と言うことがわかった。 別に悪いことじゃぁないがここにかくまでの事でもない。 「見えたこと」に的を絞った時、ネガティヴなこと(想像以上に自分普通に楽器が下手だとか録音の雰囲気苦手だとか)に関してはそれこそいくらでも言えるが、それこそそんなのは僕にとってなんら新しい情報ではない。今回ここに残しておきたいのはいままで見えてなかった自分の側面。 まずシューベルトに関すること。 ベクトル的には想像通り、しかし程度で言うと想像以上に、たった一つの音の置き方が大きく音楽に影響する作品に思えた。それら一つ一つをいちいち吟味しながら、演奏回数を重ねて見たくなる。そしておそらく都度「あそこうまくいかなかった」だとか「あそこは根本的に違うのではないか」とか反省をするのだろう。サクソフォーンレパートリーでこれを感じられるのは、グラズノフとか、その辺りだろうか。それか、本来はどんな作品でもそう言う思考回路をもっとくべきなのだろうか。 まぁとどのつまり、作品に関しては今回だけで見えたことはさほど多くないだろう、と言った感じ。新しい課題を見つけられたのは多かれ少なかれ収穫。 そして自分自身のこと。 はっきり言って一番大きいのは、自分が案外「目先のことのためにしか動かない」、と言うこと。 記事の進め方的に、読んでる皆様は僕が誰であるか以前に、この一面が見えているのだろうが、この事実は「金澤ニコラス」とかいう人間を23年やっている僕にとっては、案外新しいことだったりする。  と言うのも、学生時代は目先に与えられた(押し付けられたともいう)タスクが毎回あまりに多く、「その先」をみるのがそもそも難しかったのである。そこで当時の僕は、目先にあるそれらを、意識的に「その先の自分の成長のため」と言うモチベーションを張り付けてこなしていたのである。  振り返ってみると、それ自体は全く悪いことではないと思うし、むしろあの頃の自分は自分で本当に沢山の柵があった中、よく前向きに頑張って

シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分-6[もしかして情緒が不安定]

 前回の続き↓ 前回の記事 ここで自分がなぜこの曲をやろうと思ったのかと言う話がやっと終わる。やはり長い。 まとめてしまうと、これまで書いてきた気分の浮き沈みが、最後のたった一つのきっかけにより、異常なまでの行動力に変換されるのである。 「巡り合わせ」 改めて考えると、こんなことでケロッと元気になってしまうことが、自分という人間のよくわからない部分でもある。  「1840年以前に作曲された曲」を課題とするコンクールの登場である。このコンクールの要項をみた瞬間、それまで過去の受験の失敗と今後の目標を失ってしまっていた自分は、目先の目的を見つけられた嬉しさだけを原動力に、作りかけだった譜面をすぐに完成させ、ピアニストにも連絡する。  そこから録画の提出までの流れが、ついひと月前の話なのだが、すでにその過去の自分を気味悪く感じている自分がいる。  審査動画の録画環境、機材、合わせ練習の場所、そもそもの自分の練習場所、これら全てがろくにない状態だったのに、よくやったものだ。こういう時特に褒めてくれる人は周囲にいないので自分で自分を褒めることとする。 さぁここでやっと演奏するきっかけについては書き終えたわけだが、冷静に考えて、今のところこのシリーズのタイトルに書いてある内容まではろくに触れられていない。次回、「シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分」今更すぎる。

シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分-5[これが今後もプラスに働くといいなって話]

シリーズ化中の記事、前回の続き↓ 前回の記事 目標について無駄に深掘りしすぎた気がするが、次は更に救いようの無い話。 「挫折」 しかしこれが行動にうつる際のいいエンジンになっていたりする。  結論から言うと、院試の失敗である。アメリカの大学院に行くつもりでいたので、受かった際、出発の直前に「日本で自分が学んだこと」のアウトプットの場として、ソロリサイタルを開催するつもりだった。当初は日本やら家から完全に姿を消すつもりでいて、「日本人の金澤ニコラスは一度ここで死にます」ぐらいの感覚でいた。(ここら辺についてはまたいつか記事にしようと思ってはいる。)その際、日本になるべく未練が残らぬよう、できるできないに関わらず、「しぼめる花」をプログラムにいれて、学部時代抱いた自分の音楽観への疑問( 詳しくはこちらの記事で )を、ここで解決してやろうと考えたのである。  楽譜も作り始めていた中、その計画自体が、院試のそれも書類審査での門前払いで夢のままに終わったことで、「しぼめる花」どころか音楽そのものへの学習意欲が落ちるところまで落ち、その末端にあったこれらのモチベーションは、即座に記憶から抜け落ちるのである。 次回、奇妙なほどに明るくなる。「突然の巡り合わせ」

シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分-4[そもそもの音楽を学ぶにあたっての話]

 こちらの続き↓ 前回の記事 前回の欠点の裏返しみたいな話とは違い、今回はそもそもの姿勢の話。 「なるべく沢山の作曲家と関わる」 と言う目標。   こんなにも当たり前のことが、我々サクソフォーン奏者にとっては本当に難しい。どれほど難しいかというと、この目標を掲げていながら、そしてなんなら音高を経て音大を卒業したのに、まだシューベルトの作品に一切触れたことがない、などという現象が起きるほどである。  触れるまででもないことだと思うが、サクソフォーンのレパートリーは極端に 20 世紀フランスに集中しており、我々は恐ろしいことにそれらを平気で「古典」と呼んでしまうのである。そして自分含め、大抵の場合は、仏レパートリーや現代モノを、他と比べて考える機会も与えられないまま、それらを「得意分野」とすることを余儀なくされる。  高校の頃からなんとなくこのことに危機感を抱いてはいたが、大学に入ってからは fl.ob.cl.sax ひとりずついるクラスでの授業が中心になり、その同期たちや、フルートやファゴットの先生方から、この危機感をより現実的に感じさせられるのである。大抵どの同期も、それなりの根拠を元に好き嫌い、得意苦手を意見し合う中、やはり自分はほぼ言わされているような感覚で「仏ものが好き」と言っていた。というか、仏ものや現代ものが好きでもないなら、なぜサックスなど吹いているのかとすら思ってしまっていた。冷静に考えて極端すぎる。ある段階でこの柵とは上手く付き合えるようになり、「とりあえずなるべく色々触れてみて、何が好きかを知ろう」と考えるようになった。  こうして自分の脳内の「いつかやりたいことリスト」の中身はどんどん増え、例の病気によってリスト内で熟成されていくのである。 話は逸れるが、このシリーズ化の試み、「切り分け方」が非常に難しい。一つにまとめるには流石に長いのだが、改めて切っていくと、一つ一つはかなり短い...たまにあまりに短いのも出てくる。 そして次回する予定の投稿はまぁまぁ根深いもので、この記事とくっつけるのは違うと感じたのである。 次回「帰ってきたモチベーションと即座にくる挫折」

シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分-3[困った体質]

こちらの続き↓ 前回の記事  何故いつかやりたいことリストなるものがあって、すぐに動き出さないか、という話。 原因は自分の「体質」。 というかこれははっきり言って「病気」とすら言える。名付けて「必要性や緊急性に関わらず各瞬間自分がやりたいと思ったこと以外一切手がつかない病」である。長い。おちゃらけた書き方をしているが、結構悩ましい病気である。  今回のことで言うと、「しぼめる花」を初めて聞いた時は別のことに集中していたのである。(大学の卒業試験の直前でもあり、学外での演奏会もいくつか準備に取り掛かっていた。)  この病はこのブログの更新率の低さの原因そのものでもあり、特効薬でも出ない限り死ぬまで付き合い続けることになるので、最近は ( 周りの人へは気を遣いながら ) 上手く付き合えるように努めている。その一環でできたのが、「いつかやりたいことリスト」。ちなみに、基本的には携帯のメモ機能に残してある(あくまでも基本的に)。  そして、僕はこの体質と上手く付き合っているおかげで、僕の脳内の「いつかやりたいことリスト」はそれなりに整理されたまま、尚且つそれなりの量のタスクが溜め込まれている。「しぼめる花」はこのリストの中で、割と長いこと熟成されていたのである。 次回、「音楽を学ぶにあたって大事にしてること」。たくさんあるうちの一つ。今回のきっかけの一つ。

シューベルト:int.&しぼめる花var.をさらって見えてきた自分-2[作品の印象]

前回からシリーズ化というものを始めて見ている。まだそちらの記事をご覧でない方のためにリンクを貼りたいのだが、やり方がまだイマイチ理解できていない。 前回の記事 ↑こちらの続き。こちらで書いている「何を思い立ってこんなに急にシューベルトをやろうと思ったか」という話の軸のうちのひとつをここに書こうと思う。 まず曲の第一印象。学生の頃に同期の演奏で初めて聴いたのだが、印象だけでいうと、「長い」。 ただ聴いた演奏がとてもよかったのもあって、割と早い段階で意味のある長さを持つ曲だと気付くことができた。  しかし、変奏曲という形式上、全ての変奏は最初のテーマを基準に変奏されているので(当たり前)、曲自体の「長さ」はそれなりにネックになってくる。ましてやシューベルトの変奏技法は(一言で表すのは本来好まないが)「さりげない」ので、彼の仕掛けたことは、奏者がかなり敏感に拾う必要があると感じた。それをまたこの長さでやるのとなると、やはり演奏家に委ねられている部分が大きい作品だと思う。  そして、自分に湧いてくる疑問は「こう言う難しさを持った曲を果たして自分はできるだろうか」と言うものである。言ってしまえば、サクソフォーンレパートリーにはないタイプの深みを持った作品だと感じたのである。(一応言ってはおくがサクソフォーン作品にも別ベクトルでそれなりの深さがあるのが大前提での話である。)  こうして、この作品は自分の中で「フルートの人がよくやる曲」から「今の自分がまだ向き合えていない領域の曲」という、課題的な立ち位置になり、なんとなく「いつかやりたいことリスト」に追加されるのである。その「いつかやりたいことリスト」なるものが何故あって、なぜそんなものがあるのにすぐに動き出さないか、というのの説明となるのが自分の「体質」の話。次回予告。